2019年5月1日水曜日

資料について

 ◆映像資料  

中谷氏自身が東宝の助監督だったことと、「湯布院映画祭」「ゆふいん文化・記録映画 祭」を開催してきた関係もあり、多くの映像 資料があります。 また、記録として残してきたフィルムも多数保管。それらは編集すれば貴重な資料として甦る可能性がありますが、プロの手を借りなくてはなりません。


◆写真資料

 膨大な数のネガとフィルムがあります。退色したものは再生し、デジタル化も必要ですし、文書資料との関連もつけたいです。特に県内の写真家の方々には、折に触れて撮影をしていただいているものもあるはずです。


◆録音テープ  

多くの方々がおいで下さり、講演会や交流会を開催しました。その折の録音があります。まず、選んでテープから起こす作業が必要です。話者への確認と内容の事柄確認も欠かせません。貴重な話が甦ります。


◆講演録  

中谷氏が各地で講演した内容が印刷物になっていくらか残っています。できれば当時の日程とあ わせて探せば、掘り起こしも可能かと考えます。


◆原稿  

定期・不定期に依頼された原稿があります。掲載誌と元の原稿を合わせ、また推敲跡があるものはそのまま保存したいです。


◆書簡  

膨大です。いただいたお手紙への返信もコピーで残されています。当時取り組まれた事柄についてのやり取りもあり、また人脈の広さがわかる内容です。 


◆中谷宇吉郎・中谷治宇二郎関連資料  

中谷健太郎氏の伯父にあたる両氏の著書や蔵書・書画の一部が保管されています。庭内には「雪安居」と名付けられた宇吉郎の旧宅の一部も移築されており、貴重です。

中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900 - 1962) 日本の物理学者、随筆家。学位は理学博士(京都帝国大学・一九三一年)。北海道大学理学部教授を北海道帝国大学時代から務め、世界で初となる人工雪の製作に成功した。  

中谷 治宇二郎(なかや じうじろう、1902 - 1936) 日本の考古学者。中谷宇吉郎の弟。東京帝国大学卒。東大で縄文時代の研究を行う。一九二九年パリに行くが結核のため一九三二年帰国。由布院温泉で療養しながら『日本先史学序史』を書いたが、三四歳で早世。


「由布院の百年・編集サロン 通信vol.1 古い記録を、新しい記憶へ 2019.5」より

由布院の百年・編集サロン誕生 <中谷健太郎>

 
私が、母の背中で聞いた歌は「カチュウシャの歌」(カチュウシャ可愛や、別れの辛さ)、「椰子の実」(名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ・・)「愛国の花」(真白き富士の気高さを、こころの強い楯として・・)。 私が父の宴席で覚えた歌は 「ダンチョネ節」(沖の鴎に潮時訊けば、わたしゃ発つ鳥、えー、波に訊け・・)、「可愛いスーちゃん」(お国のためとは言いながら、人の嫌がる軍隊へ・・)、「轟沈」(可愛い魚雷と一緒に積んだ、青いバナナも黄色く熟れて・・)。 「日中戦争」から「太平洋戦争」へ、その「ど真ん中」の愛唱歌です。幼かった私が歌の意味を理解していた筈はないけれど、なぜかしっかりと覚えているのです。口ずさむと懐かしい、心が温かくなる。  そうやって五十二歳で死んでいった兵隊の父と、八十三歳まで生き伸びた国防婦人会の母を身近に思い出しながら、私は平和に生きてきました。 歌の意味はボヤケタ儘に、親たちを懐かしみながら、血みどろの戦争の歌を歌い、子供から大人になり、八十五歳の老人になったのであります。  隠宅の二階の「書架」に上がって、蔵書の山を抜き読みしてみたら、中身をほとんど覚えていない。所々に線を引いてあるから読んではいるのだけれど記憶に無いのです。「記録」にあって「記憶」にない。これってどういうことだ? フレンチの畏友美木シェフが教えてくれました。美味しい料理を食べても、その味を全部覚えているわけじゃない。だけど「食べた料理人」と「食べなかった料理人」は、明らかに違うんだよ。 

 「ヨシ、本を読もう」。本は売るほどある。月一の読書会が始まりました。「茶菓持ち寄り」の会が、何方かの「誕生会」になったりして、「ヨンダ本」は確実に増えております。シンドいけれど面白い。  由布院盆地に帰って五十年が過ぎ、大量の汗 も、涙も流したけれど、隠宅に遺っているのは、山のような「記録と資料」だけで「記録と資料」からは何の意味も、主張も、怒りも、涙も、叫びも聞こえてこない。「戦中戦後」の愛唱歌のように、意味も分からず、ただ懐かしく、町のカラオケ・ナンバーのように、じんわりと消えてゆくのか・・。 どこの町もそうやって、過去の「町造り」の設計図を、戦いの記憶を、熱い夢の目次を、ホコリだらけの「懐かしい資料」の束にネジ込んで、やんわりと忘れてゆくのだわ・・。  そんなふうに怒っていたら熊本地震が発生、余震で「隠宅」の半分が壊れてしまった。頭を抱えていたら、旧知の建築家・坂茂さんがパリから駆けつけてくださって「斜めの隠宅」が真っ直ぐになった。(岩下コレクション氏からの、厖大な資材提供もあって・・)  長い間、映画祭や、音楽祭をやってきて、二階の酔っ払いには参っていたので、二階の分厚い「松の床板」を剥いで、一階の壁に張った。そうしたらやたら頑丈な「ホール」が出来上がったのです。 二階の書架に本を並べ、一階の空いた所に、レコードや、DVDや、資料や、記録をストックしたら、なかなかの「遊び場」だか、「仕事場」だかが出来上がりました。

 私は八十五歳、隠宅は百五十歳、お愉しみはこれからだ・・とステッキを振り回しておったら、滑って転んでリハビリテーション・・すると助け舟に乗った老若男女がやってきて、お茶を飲み、風呂に入り、ビールを飲み、隠宅にぎゅう詰めの「懐かしい資料五十年」を引っ張り出して、「未来の資料五十年」に変身させよう、という話が盛り上がったのです。「キッチリと〈再編集〉してゆこうぜ」。  由布院盆地の「過去五十年」の夢と、希望と、敗北と、失敗の「記録」に急いで目を通そう、そして「生々しい記憶」を呼び戻そう、今ならそれができる。生き残った者もいる、その「記憶」を未来の「計画」に編みこむのだ・・・。  「由布院の百年・編集サロン」の誕生です・・・(続く)。

「由布院の百年・編集サロン 通信vol.1 古い記録を、新しい記憶へ 2019.5」より

由布院の百年・編集サロン 概要

  2016年4月16日午前1時過ぎ、14日の熊本地震に続き、由布院でも震度6弱の地震があり、中谷健太郎氏自宅「庄屋」も大きく損壊。その日はちょうど柄本明氏の一人芝居が上演される予定でした。「庄屋」その他には膨大な蔵書とともに、50年の町づくり資料が保管されていました。  由布院では1975年4月にも大規模な地震が発生。このとき、再起を計るため音楽祭や映画祭を立ち上げ、辻馬車の運行を始めたことは広く知られています。その後の紆余曲折の地域の取り組みは民間主導であったため、その資料のほとんどが、中谷氏のもとにあるのです。


それらが今回の地震の後の混乱で積み上げられたものと一緒になって、手のつけられない状況になっていました。写真・録音テープ・八ミリビデオ・DVD・書籍・雑誌・書簡・原稿・膨大なファイル・メモなど。それらをまず一箇所にまとめる作業にとりかかったのが2018年の春。


半壊した庄屋は2017年春には建築家坂茂さんの設計と多くの方々のご支援で再生されました。


二階にあった次郎・三郎・五郎の各部屋がなくなり、吹き抜けの状態に。二階部分は回廊式の書架になり、一部に床が張られました。現在は吹き抜けと床部分が半分づつに落ち着いています。そこが資料整理事務の中心です。

    

一階は以前同様に田の字型に分かれていて、スクリーンがある映像鑑賞コーナーと音楽鑑賞コーナー、そして円卓が置かれた談話コーナーと入り口すぐのお茶サービスコーナーです。  


ひとまず蔵書はおおまかに分類して、二階書架に収め、資料は裏の倉庫に収納しました。これから資料の内容を分類整理していくのですが、分野は実に多岐にわたります。自然や環境・米軍演習問題・開発問題・音楽・映画・建築・人材育成・観光・催事・旅・歴史・生活・農業・ものつくりなどなど。 


それらをただ、保管して守っただけでは埃をかぶってしまう。そのつど関係者に詳しくお話をうかがったり、補足したり、今に続くことがらについては、「現在のこと」として若手の方々とディスカッションもしてゆきたい。そこがこの編集サロンの目的でもあります。 


編集サロンは過去と今、未来を通して考える 「円卓の場」。かつて悩みながら問題に対峙してきたこと、または楽しみながら面白い活動をやってきたことを記録や写真や映像を観ながら振り返り、新たなことを発見し、創造してゆく。わくわくの「場」となるのが目標です。


「由布院の百年・編集サロン 通信vol.1 古い記録を、新しい記憶へ 2019.5」より

サロン通信 vol.1 ができました