2020年5月31日日曜日

民意という文化の海を造るために

 せっかくだから、『花水樹』の創刊号を開いてみると、発刊する理由が書かれている。

これは今から五十年前に中谷健太郎さんによって書かれたものだが、今の世界や日本の状況はもっと大きな岐路に立たされているから、目の前で語られているかの如く、迫ってくる。

「民意という文化の海は豊かになったのか」

 それを考えるために、今また資料整理をしながら、語り合いをしていきたいと思う。現代はリモートという方法も生み出されて、遠く海外または地球外にいる人とも話ができるようだが、できれば同じ空間で適度な距離で、多様な生きものと共存しながら…。   (平野)


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「花水樹」を発刊する理由 

こんど私たち由布院の自然を守る会が中心になって『花水樹』を発行する運びになりました。

どうしてそんなことを始めたかというと、私たちはいま由布院がたいへん大事な歴史的岐路に立っていると考え、いまこそみんで良い考えを出し合って由布院の将来を方向づけないと百年の計を誤ってしまうと考えるからです。

(中略)

つまり、由布院の町がどんな産業を持ち、どんな文化を形成しうるかということは、すなわち私たち由布院に住む者が、あなたが、私が、どんな産業を望み、どんな家に住みたいと思い、どんな食べ物を美味しいと感じ、どんな生き方を好ましいと考えるか、要するに私たちがどのように生きるかにかかっていると思うのです。

そういう町民全体の真剣な意思が積み重ねられ、みがきぬかれして、ひとつの具体的な指向を持ち始めた時、はじめてそれが行政という機関を通して実現するのです。

鯨のような果敢な動物でも潮がなければ泳げません。

どんなに有能な行政者でも、民意という文化の海が豊かに拡がっていなければ充分の航行はできないのです。

そしてこの『花水樹』という雑誌はその海を作るために発行されるものです。


整理仕事の楽しみは「発見」にあり

 中谷健太郎さんの「日誌」(昭和四十三年十月五日~昭和四十七年九月十日)全九冊のスケッチブックに書かれた日記が、昔の旅館大浴場入り口に建っていた茅葺きの小屋(「一時はふくろうの会」の事務所になっていた所)の屋根裏に上がっていた埃まみれの箱の中から見つかった。旅館組合の青年諸氏が奮闘して降ろしてくださったおかげ。


昭和四十三(一九六八)年十月五日(土)晴れ

「井伏鱒二が南方軍に徴用されていた間も備忘録をつけていた云々…。備忘録はともかく、細かい観察の癖をつける点は利ありと思う。」

と始まっている。


昭和四十四(一九六九)年四月十七日木曜曇

「やつとこのスケッチブックが手に這入ったのでまた日記を始める。筆で書くのは谷崎純一郎を真似た訳ではない。文章を丁重に書くようになるのではないかと思うし、それに筆がたつといろんなコマ〲した事をこま〲と書けるかも知れない。つまり、表現というコミュニケートが巧くゆくのに役立つかも知れないと思う故もある。この頃、工事が続くのでなんとなく疲れる。風呂の建物もほとんど完成。」

と、旅館お風呂の工事の様子があれこれと書かれている。地元の光明さんや清隆さんが「光明清隆連合軍」拾名の人夫として活躍しているさまは、目に浮かぶようだ。この日誌には健太郎さんのスケッチも散見されて面白い。家族・風景・料理等々。この日誌に記されているのは、あの『たすきがけの湯布院』の十年前、昭和の大分中部地震が起こる前の由布院の日常であり、まだ馬車も音楽祭も映画祭も立ち上がる前の由布院盆地である。

この日記を書いていた昭和四十四(一九六九)年に、立ち上げたのが「会員別荘 庄屋」。庄屋会員申込書の黒表紙の綴りとともに、コクヨの複写便箋があった。四月から九月にかけての三冊で、その一冊目にある福岡在住の方への手紙には


前略、早速に庄屋会員にお申込み頂きまして真に有り難うございます。

  会員証と領収証、同封にて御送付申し上げます。

御受納下さいませ。

  会員証は汚損しますので、参年に壱度書き替えさせて

頂きますが、会員の資格は終身有効でございます。

  末永く、ご悠りとおつき合いお願い致します。

  尚、お問い合わせの『梅里庵』の件ですが、これは祖父巳次郎の雅号です。梅里庵桂邨と号し、『倍利案、毛損』即ち『利は倍もあって、損は毛ほどと云う案』に酒落れかけたものと聞いております。

  商売気と風流心がひとつになった面白い親爺だったぞと

昔のオトクイ様にはげまされます。

  なにはともあれ、右お礼までに…                 草々


というふうに、初代巳次郎さんの風流を垣間見ることができる文章もある。また、別の方にあてた手紙には、

  六月十八日ふるさとの歌まつりのビデオ撮りが由布院であります。そのお蔭で唯今かけ走りっぱなしです。ほとんど由布院だけでまとめたのですが、かなりの線までゆきそうです。七月十日の放映です。ご覧ください。     草々

  『たすきがけの湯布院』(中谷健太郎著 アドバンス大分 一九八三年刊)の「ふるさとの歌まつり現る」の項にそのバタバタぶりは詳しいけれど、中谷は三十五歳。前年の一九六八年には分厚い観光冊子『ゆふいん』をつくり、その年の夏まつりには新町を踊り歩く「盆地まつり」を始めた。そして翌年の「ふるさとの歌まつり」に備えて、ムラの祭りの発掘に取り掛かり八十年前の「虫追い蝗攘祭祭り」を再現。それが、今に続く祭りになった。

  そして、会員別荘立ち上げの翌年一九七〇年七月には、猪の瀬戸にゴルフ場計画が持ち上がり、「こりゃたいへん」と生まれたのが「由布院の自然を守る会」。猪の瀬戸を知っている県内外の知名士に〔知名士百人アンケート〕というのを行った。ほとんどの方々が開発に反対か慎重な意見を寄せて下さり、各新聞が取り上げ、計画は中止された。この手法はその後、日出生台演習場への沖縄米軍演習移転への反対や平成の市町村合併のときにも実行された。このころ発行されたのが、由布院七〇年代の町造り誌『花水樹』である。

いよいよ、一九七一年には志手康二・溝口薫平・中谷健太郎がヨーロッパへ五十日間の旅に出る。本多静六博士が由布院を訪れて『由布院温泉発展策』を残してから四十七年後のことであった。

 資料を整理していると、芋づる式に事物が繋がり、リアルタイムで経験しているかのように感じるから面白い。

(平野美和子)

「由布院の百年・編集サロン 通信vol.3 古い記録を、新しい記憶へ 2020.6」より

忘れていた『根っこ』 見つめ直す契機に

コロナ禍で全国の観光地から人波が消えた。『癒しの里』由布院盆地にも重苦しさが漂う。

 僕が東京から由布院に戻ってきた六十年近く前のように、静かで、歩いている人がほとんどいない。当時は「早くいろんな人が来てくれんかな」とはっきりした夢があったけど、今はそこが壊れてしまった。

でも、僕がいつも散歩しているムラの区域は、昔とそんなに変わっていない。

田んぼではおばあちゃんが悠々と代かきをやっている。道端から「こんにちは」と声掛けて、「精が出るなぁ。元気かえー」とあいさつを交わす。

(飛沫対策で)二㍍くらい離れないとしゃべれないような状況でも、そんなやりとりがどれほど人を安心させてくれるか。五十年、六十年経っても地域はある部分で変わらず、『根っこ』はずっと続いている。大変な状況には違いないけれど、「豊かだったな、このムラは」と改めて思いますね。

全国ブランドに発展した由布院温泉はここ数年、外国人客が激増した。

インバウンド(訪日客)を増やそう、受け入れる宿泊施設も増やさないと…。業界も自治体も経済界もそろって「観光立国」を言ってきた。現状を見ると、その流れってちょっと狂ってたかな、と。

「駅前からずらっと観光客がいるぞ」「売上が伸びたぜ」。量的、経済的に増えればいいみたいなことを言い続けてきて、なんか根っこを忘れかけてたと思う。観光客が何人来たとか、量で自慢してもしょうがないですよ。

外出自粛要請により観光業の根幹をなす「人の移動」が止まった。

よそから来た人とムラの人が混ぜこぜになり、違う者たちが一緒に生きるエネルギーがあって、今の由布院がある。われわれだって「よそ者」が入って来てくれなかったら壊滅しますから。要は混ぜこぜをうまい具合にすればいいわけで、地元だ、よそ者だと構えて敵対することもない。

一方で、これをきっかけに歴史的な根っこを見つめ直す動きが強まってくるんじゃないかな。外と結び付こうとする欲求と、仲間意識。「盆地のDNA」のようなものです。

新型コロナウィルスは現代社会の価値観を揺さぶっている。

(コロナ禍は)いつかは終わる。その時、世界の産業も就労も何もかもが大ダメージを受けているだろうけど、これからは異なる人と力を合わせ、いかに間に合わせていくかでしょう。

大事なのは「あまり多くを欲しがらないこと」。地球上の人はお互いが支えたり、支えられたりして生きている。その感覚を僕らが持つことができるか。うまくいくコツはそういうところにあるんじゃないかな。


大分合同新聞 二〇二〇年四月二十四日「コロナ禍に想う」⑴より


「由布院の百年・編集サロン 通信vol.3 古い記録を、新しい記憶へ 2020.6」より

資料の閲覧と助っ人について

資料の閲覧について

①資料閲覧には中谷健太郎さんか、サロンスタッフの付き添いが必要です。できるだけ事前にお知らせください。

②資料の持ち出しはできません。複写・撮影はお申し出ください。アーカイヴが進んだら、デジタルでの資料提供ができると思います。

③書籍については閲覧自由ですが、定位置にお戻しください。一部貸出可能なものもあります。(貸出ノートあり) 


助っ人について

単なる作業としてではなく、由布院の歩みや中谷健太郎さんの仕事について知りたいと思う方、特に次世代を担う方々に関わっていただければ、幸いです。

事務局に連絡をいただければ個別にお話いたします。

原則、交通費滞在費は各人の負担になりますが、ここでしか得られない新たな繋がりや発見があります。


(2020.6現在)

中谷健太郎さんが語る バーデンヴァイラーの町をあげての大騒ぎの日 ~その興奮が由布院のエネルギーに

 僕らが今から約五十年前にドイツの保養温泉地バーデンヴァイラーを訪ねたとき、

「昼間の自動車も保養の町では遠慮してくれ、夜はもう走らんでくれ」

というような訴えを町から郡に対して行っていた。そしてそれがついに勝った!という喜びの日に僕らが行ったので、町をあげての大騒ぎだった、というような報告書を書いておった。

 僕らはそのつもりで、(由布院に)帰って来ても、「あの素晴らしいバーデンヴァイラー、緑を守り・静けさを守る」という情報に興奮して、その後、町づくりの運動をやった。その運動が、昭和五十年の地震の後に、いろんな企画になって盛り上がってきたのです。

その後、NHKの「プロジェクトX」という大げさな番組のスタッフたちが、僕らの話を聞いて興奮して、「現場に行ってみなきゃ」というんで、NHKを説得して、バーデンヴァイラーまで撮りにいったわけ。その結果、わかったことは、僕らはとんでもない聞き違いをしておって、僕らが行ったときに「わーっ」と騒いでいたことは間違いないのだけれど、それは町ののぼせモンたちが「町を静かに」運動を起こして、バーデンヴァイラーの議会を乗せた。「昼間は昼寝の時間だから車を走らせるな。夜は眠る時間だから車は通さないゾ。エイエイオー」って盛り上がって、僕らはその人たちを頼って行ったもんですから、その人たちの話だけが耳に入って、僕らも興奮して「クルマ・ノー」と叫んでしまった。

「ところが」という話は、そのNHKの正しい通訳によってわかったんですが、「実は町が負けたんだ。郡が勝ったのだ」と…。いくら町が「昼は通さない、夜も通さない」と言ったって、町の道は郡の道に通じてるんで、「そうはさせんぞ」と、郡の裁判にかかったんだそうです。ひとつの町が郡道ともいえるものを閉鎖するなんてありえん、「ダメーッ」とやられて…(笑い)。

 僕らが「勝った勝った!」という騒ぎに出会ったのは、その裁判に勝った「郡の方々」の騒ぎだったんです(笑い)。「郡が何だ! 町の自由こそ」と騒いでいた人たちはその辺りにいなかった(笑い)。

 ただ、怪我の功名っていうか、僕らは興奮していたからそんな誤解をしてしまったんだけど、あれが正しく「町は郡に負けましたとさ」という話で伝えられたら、由布院に帰って「町の静けさを守れ!」というむちゃくちゃなエネルギーにはならなかったろうと思う…。これは歴史の皮肉っていうか、先日おいでになったお二人とは、そんな話をして大いに盛り上がりました。

 お二人の話では、今、バーデンヴァイラーはたいへんだと。あの頃僕たちが聞かされた話はね。健康の為の保険を国が強制的に掛けさせて、使わなければゼロになりますよ。それを使って国民宿舎や温泉で保養してくださいという「予防保養」のシステムが強かった。バトナウハイム、ベリンゲン、クロッチンゲンなどの温泉地もそうでした。でも、その後、そんな一律の楽しみ方が、だんだん落ちてきた。むしろ、美味しいものを食べて目新しく遊ぶ、温泉もいろいろある、という日本的な温泉観光地の方が人気になってきている。税金と保険で使える一律の温泉保養地は利用者が減ってきている状況だと言うんです。

 僕たちはいまだに、昔のドイツ型の保養地に憧れて、水と緑を増やそうよ、なんてやってますけど、そう言わんとならんほどに樹をじゃまにして切ってしまうんですよね、村の風習は…。昔は由布院でも場所によっては防風林として樹を植えていたんだけどね。

 そんな意味でバーデンヴァイラーは今も私たちの夢の町です。子供の代までね…。(拍手) 


「由布院の百年・編集サロン 通信vol.3 古い記録を、新しい記憶へ 2020.6」より



資料整理・アーカイヴと庄屋サロンの状況 

◇ 2019年4月に立ち上げたが、実質動き出したのは6月、専任のスタッフがいない中で、時間を細切れに使いながら、慣れない作業を続けた。整理をしている場所「庄屋サロン」は来客も多い。来客との話によって引き出されてゆく記憶の数々が充分に拾いきれていないことに、気がつきつつも時間は過ぎてゆく。「録音するのを忘れた」ということがいかに多かったか。録音はできてもテープ起しができない。動画も撮り損ねている。


◇ 「水曜朗読会」なるものを始めた。中谷健太郎さんが資料や著書の朗読をする。その後で資料映像を観ようというものだ。この日時設定が難しい。若手中堅の方々にぜひ参加して欲しいのだが、由布院は観光業の人も多いため、土曜日曜は忙しい。では平日の夜はといっても、朗読する側が若くはないので体力が心配だ。かくて水曜の昼間に開いた会は、すでに町づくりに敏腕をふるってきた方々ばかりになった。では、まずは若手にお手伝いをお願いし、その後、鶏鍋をつつきながら話をしたらどうか。鶏鍋は夜になるから、一杯飲みながら…後で記録を確認しても何やらつかみどころがない。

 後に、コロナウイルスが現れてからは、このような時間がいかに貴重だったかを思い知らされることになった。今は、大勢で鶏鍋を囲むことが困難である。 


◇ はがきでの案内作戦。「ご都合の良い時間にどうぞ」「今週は○○の内容で」等、SNSではなくて手書きの葉書を出す。「今週はちょっとうかがえませんが…また次回に」とメールでお返事をいただく。


◇ そんな中、一般社団法人由布市まちづくり観光局の業務委託で公益財団法人日本交通公社の研究員の方々(福永香織氏と小坂典子氏)が観光アーカイブ支援においで下さった。当編集サロンの関連では、観光関連書籍のリストづくり、関連ファイルの内容リストに取り掛かり、12月末には第1回目の「溝口薫平×中谷健太郎 対談」を庄屋サロンで実施。テーマは「日観連と由布院の町づくり」。サロンの丸テーブルを囲んで、由布院の「日観連連絡会」の自由独自な特徴がどんどん話された。


◇ 第2回は2月初旬。まだ、新型コロナが身近にはなっていなかったので、このときも多くの方が集まった。テーマは「由布院の町づくりのベースになったヨーロッパ視察」50年も前のことだから、だんだん記憶が薄れているといいながらも、無いと思っていた写真が見つかったり、当時の町長が訪問先の大使館宛に送った「業務調査委託書」が保管されていたり、現地から留守家族宛に送った葉書もあり、物語の域に入っていた旅の話がリアルに迫ってきた。まさに「古い記録を、新しい記憶へ」と更新した。


◇  そして図らずも2月下旬の由布院にドイツのバーデンヴァイラーから、元市長のBauert氏の知人のWilheim Spaeth氏と案内役の櫻木正治氏が訪ねてくださるとは、偶然ではないのではないか。このときお二人は、ぎりぎりのタイミングでコロナ感染予防の規制に遭わずにドイツの村に帰宅。



  このようなことがあるので、記録はつねに新しい記憶になっていく。  

(事務局) 

「由布院の百年・編集サロン 通信vol.3 古い記録を、新しい記憶へ 2020.6」より


世の中デングリ返った<中谷健太郎>

 コロナが登場して、世の中デングリ返った…。

そう思っていろいろアレコレ考えました。

で結論は「あんまり変わっちおらん」いや、まるで「変わっちおらんのう」です。溜め込んだ五十年間のメモ・日記・記録の類いに、手紙のやりとり、そして思い出ボロボロを混ぜ込んでみると、そのことがよく判ります。

盆地の緑は日に日に濃くなってゆき、黒かった土が水色に光り始めました。

ある日、村人が登場して、景色は一気に早苗の色に変わります。うむ、変わってゆくこともあるぞ、なんとかしなくちゃあ…

旅館のお客様は激減しましたよ。

「お客様じゃなうで、コロナ運搬人じゃ」

そんな噂はまもなく消えるじゃろうけれど、そのあとのお客様の気分もまた変わるじゃろうなあ…。


「むさぼらなくなる(なろうよ)」と思う。「欲しがりません勝つまでは」じゃない本物の「悠々気分」だよ、それがやってくる。

「悠々気分の時代」を創ろうよ。そんな運動なら増え続ける老人たちにも、加勢応援ができるぞお…。「深夜まで営業しようよ」の応援じゃあなくて…。わかり易く言うと「やすらぎの里」を創ろうよ、の話です、テレビ番組で高視聴率だった…。

あの中に八千草薫さんが登場しておられた。良い人でした。

六十年ほど昔、撮影所で一本だけ仕事をご一緒しました。「旅姿鼠小僧」。稲垣浩監督、鶴田浩二、草笛光子、八千草薫主演の時代劇です。
お三方共に超過密のスケジュールで、撮影は深夜早朝のメチャ  押し、現場は「変更」「訂正」のブッチギリ状態だった。そんな中で、ひと言も「ボヤカなかった」のはヒトミちゃんだけ。(ヒトミちゃんは八千草さんの本名です)。
そんな八千草さんが、昨年、わが「庄屋サロン」の会員になってくださった。岡本みね子さん(故岡本喜八監督の未亡人)の第一回監督作品「ゆずり葉の頃」の湯布院上映のご縁もあって…何とも残念。口惜しいご逝去でした。ご冥福を祈ります。


 所で「やすらぎの里」だけれど、五十年ほど昔、志手、溝口、中谷の由布院三青年が新しい温泉地構想を求めて、ドイツに旅をした話は有名だけれど、その時頼った先はフランクフルトの療養別荘でした。そこに中谷の友人の友人、P・クローメ氏(ドイツ・シュピーゲル誌編集長・当時)の父上が滞在、療養しておられた。
 赤頭巾ちゃんが出てきそうな森の中に花咲き乱れ、鳥唄い、風爽かで、畑もあって…水辺には小さなクリニックがありました。(コロナ禍で有名になったドイツのクリニックです)
こここそがドイツの「やすらぎの里」であったのです。その「やすらぎの里」が今も由布院に出来ていない。なぜか?
 私はマチガッテしまったのだ。「由布院盆地」という台木の根っコを全力で育てることをせずに新しく「継ぎ木」をしようと頑張ってしまった、なぜか?それをコロナ蟄居で考えてみます。               
(以下次号)
 

「由布院の百年・編集サロン 通信vol.3 古い記録を、新しい記憶へ 2020.6」より