2020年5月31日日曜日

整理仕事の楽しみは「発見」にあり

 中谷健太郎さんの「日誌」(昭和四十三年十月五日~昭和四十七年九月十日)全九冊のスケッチブックに書かれた日記が、昔の旅館大浴場入り口に建っていた茅葺きの小屋(「一時はふくろうの会」の事務所になっていた所)の屋根裏に上がっていた埃まみれの箱の中から見つかった。旅館組合の青年諸氏が奮闘して降ろしてくださったおかげ。


昭和四十三(一九六八)年十月五日(土)晴れ

「井伏鱒二が南方軍に徴用されていた間も備忘録をつけていた云々…。備忘録はともかく、細かい観察の癖をつける点は利ありと思う。」

と始まっている。


昭和四十四(一九六九)年四月十七日木曜曇

「やつとこのスケッチブックが手に這入ったのでまた日記を始める。筆で書くのは谷崎純一郎を真似た訳ではない。文章を丁重に書くようになるのではないかと思うし、それに筆がたつといろんなコマ〲した事をこま〲と書けるかも知れない。つまり、表現というコミュニケートが巧くゆくのに役立つかも知れないと思う故もある。この頃、工事が続くのでなんとなく疲れる。風呂の建物もほとんど完成。」

と、旅館お風呂の工事の様子があれこれと書かれている。地元の光明さんや清隆さんが「光明清隆連合軍」拾名の人夫として活躍しているさまは、目に浮かぶようだ。この日誌には健太郎さんのスケッチも散見されて面白い。家族・風景・料理等々。この日誌に記されているのは、あの『たすきがけの湯布院』の十年前、昭和の大分中部地震が起こる前の由布院の日常であり、まだ馬車も音楽祭も映画祭も立ち上がる前の由布院盆地である。

この日記を書いていた昭和四十四(一九六九)年に、立ち上げたのが「会員別荘 庄屋」。庄屋会員申込書の黒表紙の綴りとともに、コクヨの複写便箋があった。四月から九月にかけての三冊で、その一冊目にある福岡在住の方への手紙には


前略、早速に庄屋会員にお申込み頂きまして真に有り難うございます。

  会員証と領収証、同封にて御送付申し上げます。

御受納下さいませ。

  会員証は汚損しますので、参年に壱度書き替えさせて

頂きますが、会員の資格は終身有効でございます。

  末永く、ご悠りとおつき合いお願い致します。

  尚、お問い合わせの『梅里庵』の件ですが、これは祖父巳次郎の雅号です。梅里庵桂邨と号し、『倍利案、毛損』即ち『利は倍もあって、損は毛ほどと云う案』に酒落れかけたものと聞いております。

  商売気と風流心がひとつになった面白い親爺だったぞと

昔のオトクイ様にはげまされます。

  なにはともあれ、右お礼までに…                 草々


というふうに、初代巳次郎さんの風流を垣間見ることができる文章もある。また、別の方にあてた手紙には、

  六月十八日ふるさとの歌まつりのビデオ撮りが由布院であります。そのお蔭で唯今かけ走りっぱなしです。ほとんど由布院だけでまとめたのですが、かなりの線までゆきそうです。七月十日の放映です。ご覧ください。     草々

  『たすきがけの湯布院』(中谷健太郎著 アドバンス大分 一九八三年刊)の「ふるさとの歌まつり現る」の項にそのバタバタぶりは詳しいけれど、中谷は三十五歳。前年の一九六八年には分厚い観光冊子『ゆふいん』をつくり、その年の夏まつりには新町を踊り歩く「盆地まつり」を始めた。そして翌年の「ふるさとの歌まつり」に備えて、ムラの祭りの発掘に取り掛かり八十年前の「虫追い蝗攘祭祭り」を再現。それが、今に続く祭りになった。

  そして、会員別荘立ち上げの翌年一九七〇年七月には、猪の瀬戸にゴルフ場計画が持ち上がり、「こりゃたいへん」と生まれたのが「由布院の自然を守る会」。猪の瀬戸を知っている県内外の知名士に〔知名士百人アンケート〕というのを行った。ほとんどの方々が開発に反対か慎重な意見を寄せて下さり、各新聞が取り上げ、計画は中止された。この手法はその後、日出生台演習場への沖縄米軍演習移転への反対や平成の市町村合併のときにも実行された。このころ発行されたのが、由布院七〇年代の町造り誌『花水樹』である。

いよいよ、一九七一年には志手康二・溝口薫平・中谷健太郎がヨーロッパへ五十日間の旅に出る。本多静六博士が由布院を訪れて『由布院温泉発展策』を残してから四十七年後のことであった。

 資料を整理していると、芋づる式に事物が繋がり、リアルタイムで経験しているかのように感じるから面白い。

(平野美和子)

「由布院の百年・編集サロン 通信vol.3 古い記録を、新しい記憶へ 2020.6」より