2019年5月1日水曜日

由布院の百年・編集サロン誕生 <中谷健太郎>

 
私が、母の背中で聞いた歌は「カチュウシャの歌」(カチュウシャ可愛や、別れの辛さ)、「椰子の実」(名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ・・)「愛国の花」(真白き富士の気高さを、こころの強い楯として・・)。 私が父の宴席で覚えた歌は 「ダンチョネ節」(沖の鴎に潮時訊けば、わたしゃ発つ鳥、えー、波に訊け・・)、「可愛いスーちゃん」(お国のためとは言いながら、人の嫌がる軍隊へ・・)、「轟沈」(可愛い魚雷と一緒に積んだ、青いバナナも黄色く熟れて・・)。 「日中戦争」から「太平洋戦争」へ、その「ど真ん中」の愛唱歌です。幼かった私が歌の意味を理解していた筈はないけれど、なぜかしっかりと覚えているのです。口ずさむと懐かしい、心が温かくなる。  そうやって五十二歳で死んでいった兵隊の父と、八十三歳まで生き伸びた国防婦人会の母を身近に思い出しながら、私は平和に生きてきました。 歌の意味はボヤケタ儘に、親たちを懐かしみながら、血みどろの戦争の歌を歌い、子供から大人になり、八十五歳の老人になったのであります。  隠宅の二階の「書架」に上がって、蔵書の山を抜き読みしてみたら、中身をほとんど覚えていない。所々に線を引いてあるから読んではいるのだけれど記憶に無いのです。「記録」にあって「記憶」にない。これってどういうことだ? フレンチの畏友美木シェフが教えてくれました。美味しい料理を食べても、その味を全部覚えているわけじゃない。だけど「食べた料理人」と「食べなかった料理人」は、明らかに違うんだよ。 

 「ヨシ、本を読もう」。本は売るほどある。月一の読書会が始まりました。「茶菓持ち寄り」の会が、何方かの「誕生会」になったりして、「ヨンダ本」は確実に増えております。シンドいけれど面白い。  由布院盆地に帰って五十年が過ぎ、大量の汗 も、涙も流したけれど、隠宅に遺っているのは、山のような「記録と資料」だけで「記録と資料」からは何の意味も、主張も、怒りも、涙も、叫びも聞こえてこない。「戦中戦後」の愛唱歌のように、意味も分からず、ただ懐かしく、町のカラオケ・ナンバーのように、じんわりと消えてゆくのか・・。 どこの町もそうやって、過去の「町造り」の設計図を、戦いの記憶を、熱い夢の目次を、ホコリだらけの「懐かしい資料」の束にネジ込んで、やんわりと忘れてゆくのだわ・・。  そんなふうに怒っていたら熊本地震が発生、余震で「隠宅」の半分が壊れてしまった。頭を抱えていたら、旧知の建築家・坂茂さんがパリから駆けつけてくださって「斜めの隠宅」が真っ直ぐになった。(岩下コレクション氏からの、厖大な資材提供もあって・・)  長い間、映画祭や、音楽祭をやってきて、二階の酔っ払いには参っていたので、二階の分厚い「松の床板」を剥いで、一階の壁に張った。そうしたらやたら頑丈な「ホール」が出来上がったのです。 二階の書架に本を並べ、一階の空いた所に、レコードや、DVDや、資料や、記録をストックしたら、なかなかの「遊び場」だか、「仕事場」だかが出来上がりました。

 私は八十五歳、隠宅は百五十歳、お愉しみはこれからだ・・とステッキを振り回しておったら、滑って転んでリハビリテーション・・すると助け舟に乗った老若男女がやってきて、お茶を飲み、風呂に入り、ビールを飲み、隠宅にぎゅう詰めの「懐かしい資料五十年」を引っ張り出して、「未来の資料五十年」に変身させよう、という話が盛り上がったのです。「キッチリと〈再編集〉してゆこうぜ」。  由布院盆地の「過去五十年」の夢と、希望と、敗北と、失敗の「記録」に急いで目を通そう、そして「生々しい記憶」を呼び戻そう、今ならそれができる。生き残った者もいる、その「記憶」を未来の「計画」に編みこむのだ・・・。  「由布院の百年・編集サロン」の誕生です・・・(続く)。

「由布院の百年・編集サロン 通信vol.1 古い記録を、新しい記憶へ 2019.5」より